ミャンマー
カルチャー

【旅を深めるミニ講座】体感する、ミャンマー仏教 ー前編ー

普段見慣れたのとはちがう風景や人々に、探究心を掻き立てられずにはいられない異国での旅。でも、旅に出る前にその土地の文化や歴史を少し予習しておけば、旅は単なる観て楽しい観光から、“なるほど”の旅に。現地の人やモノとの距離がぐっと縮まる旅になるはず。

 

TRIPPING!では、より賢くディープな旅を楽しむためのアレコレを達人に訊く、“出発前”のミニ講座をお届け! 第1回のテーマは、ミャンマー旅行の前に知っておきたい「ミャンマーの仏教」について予習します。そこで、単身ミャンマーに渡って尼となる修行をした経験をもつ「みんなの寺」坊守の天野和公さんに、ご自身の体験談を交えて、教えてもらいました。

 

いざ、仏教大国ミャンマーへ

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Q.2004年、天野さんは仏教の修行をするため一念発起、ミャンマーへ。同国以外にも仏教国が数ある中で、ミャンマーを選んだワケとは?

 

「ミャンマーはテーワラーダ(上座部)仏教国の一つで、国民の8~9割が仏教徒という篤信の国です。男性は一生に一度は出家することが推奨されていますし、古く王朝時代から経典学習や研究が盛んに行なわれてきました。そのようなお国柄ですので、世界的に有名な僧侶や瞑想指導者をたくさん輩出しています。

それで私の中ではすっかり『瞑想の本場』というイメージができあがったんですね。『一度はミャンマーの地を踏みたい!いや、踏まねば!』という漠然とした憧れだけで、えいやっと飛び込んでしまいました。それで非常に痛い目をみたわけですけど(笑)」

 

Q.タイやラオス、カンボジアなどと並んでミャンマーで信仰される「上座部仏教」。その教えの中で、耳にするのが「功徳(くどく)を積む」という言葉だ。これはどういう意味なんだろう?

 

『悪いことをせず、よいことを行い、自分の心をキレイにする』。功徳を積むというのは、この基本の教えを一歩一歩実践することです。具体的には、得たものを分け与える『布施(ふせ)』、体と言葉の行為を慎む『持戒(じかい)』、勉強したり修行したりする『修習(しゅじゅう)』の3つに大別されます。

ただし功徳を積むのは手段であって、目的ではありません。仏教の究極のゴールは『苦の消滅』です。解脱、悟り、涅槃などさまざまな呼び方がありますが、簡単に言えば智慧を開発し、輪廻転生という苦しみのシステムから抜け出すことです。苦しみの原因は外にはなく、自分自身の煩悩(ぼんのう)と呼ばれる心の汚れにあります。ですから瞑想を通してその実態を見極めていくんです」

 

実は、現地人だけでなく外国人の修行も広く受け入れているという仏教国、ミャンマー。天野さんが修行されたヤンゴンの瞑想センターにも、数多くの外国人が滞在していたとか。(『ミャンマーで尼になりました』参照)

 

僧侶は「人にあらず」?

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Q.では、実際に3か月にわたる修行はどんな時間だったのか? 日本とのカルチャーギャップは?

 

「私の滞在した瞑想センターは、朝3時に起床して夜9時に就寝するまでひたすら瞑想するところでした。食事やシャワーも瞑想しながら行い、他の人と会話をすることもありません。ただただ自分の心と体に起こることを観察するんです。生じたものを、生じたままに気づけるように。

すると『常に変化し続けている』『何ひとつ思い通りにならない』という真理と『そうあってほしくない』と抵抗する自分が、痛いほどよく見えてくる。ああ本当にそうなんだな、自分を苦しめているのは、自分の愚かさなんだなと腑に落ちました」

 

元は同じ仏教(日本や中国などで信仰されるのは、分派した大乗仏教)と言えど、日本とミャンマーに息づく仏教文化は大きく異なる。何よりも「僧侶が非常に重んじられていること」に強いカルチャーギャップを受けたという天野さん。

「僧侶は、仏教で帰依の対象となる『三つの宝』、ブッダ(仏さま)、ダンマ(仏さまの教え)、サンガ(聖者の集団)のひとつとして敬われています。それは言葉にも顕著に表れており、僧侶に対してはルー(人)とかトゥー(彼)とは言いません。仏門に入った方は、もはや人にあらずなんです。僧侶が主語になると、『食べる』『寝る』『住む』といった動詞もがらりと変わります。こちらの自称は『私』ではなく『弟子』になりますし、語尾には必ず『パヤー(尊い方)』とつけなくてはなりません。慣れるまで少し戸惑いますね。また、バス前方は僧侶の優先席です。俗人は僧侶と同卓で食事しない、袈裟に触れない、影すら踏まない。徹底しています」

 

旅客としてもここはきちんと知っておきたいところ。

 

Q.では、天野さんから見て、ミャンマーの人々にとって「仏教」とはどんな存在なのだろうか?

 

「生きる規範というか、人生の要でしょうか。もちろん人によって信仰心の差はあるでしょうが、『なくてはならないもの』という印象を強く受けました。信者のみなさんを見ていると、どこに住んでいようと、彼らミャンマー人にとってお寺と僧侶は必要不可欠なのだと感じます。またミャンマーでは国語の教科書にもジャータカ(ブッダの過去世の物語)が登場するくらいで、一般の方も仏教についてよく知っています。お布施をしたり法話を聞くことも決して特別なことではなく、ごく日常のものとして身近にありますね」

 

きっとミャンマーを実際に訪れたなら、仏教文化が息づくそんな日常の一コマを覗けることが多々あるはず。

ところで、天野さんは1回目の修行の後、1年後に再びミャンマーへ。その理由とは? また、これからミャンマーに行く人へ天野さんがお勧めするスポット、時間の過ごし方とは?

後編につづく

 

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※こちらもcheck!→「知っておきたいミャンマーの現地事情」

 

<プロフィール>

天野和公(あまの・わこう)
1978年青森県生まれ。お寺の生まれではないものの、なぜか小さい頃から宗教好き。東北大学(宗教学)を卒業した翌2002年、夫と宮城県仙台市に「みんなの寺」を開山。「いつでも誰でも自由に立ち寄れる、みんなのための小さなお寺」として活動を続けている。2004年ミャンマーで尼僧となり3ヶ月間修行、その体験を4コマ漫画に描き『ミャンマーで尼になりました』(イースト・プレス)として出版した。他の著書に『ブッダの娘たちへ』(春秋社)『みんなの寺のつくり方』(雷鳥社)『みんなの寺絵日記』(サンガ)、共著に『ミャンマー仏教を語る』(現代書林)がある。

http://www.mintera.info

 

(text: Izumi Kakeya)

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