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- 東南アジアの「野球」には日本が深く関わっている
ジャカルタのど真ん中で開催された野球の東アジアカップ
5月3日から8日までの6日間、インドネシアの首都・ジャカルタで野球の東アジアカップが開催された。出場したのはインドネシア、フィリピン、タイ、シンガポール、スリランカ、香港という東南アジア諸国を中心とした6カ国。都心に位置するグラウンドで、ジャカルタの高層ビル群を背景に熱戦が展開された。
東アジアカップは、東アジア地域のナショナルチームによって争われる国際大会。優勝チームにはアジア野球選手権大会への出場権が与えられ、シード国として本戦から出場するアジアの「4強」、日本、韓国、台湾、中国とも対戦することになる。
日本人が関わる東南アジア野球
アジアの野球には、日本が深く関わっている。とりわけ東南アジアではほとんどの国に日本人が携わっており、今大会もフィリピン、インドネシア、シンガポールの3カ国は日本人が監督やチームの代表を務めた。フィリピンの板倉国文代表、インドネシアの野中寿人監督、シンガポールの内田秀之監督の3名だ。
写真左:インドネシア監督の野中氏 写真右:フィリピンの板倉氏
写真奥正面、赤のユニホーム:シンガポール監督の内田氏
日本野球の海外への貢献というと、JICA(青年海外協力隊)からのコーチ派遣の形がある。今大会でもスリランカ代表に2名の日本人コーチが派遣されていたが、板倉、野中、内田の3氏の場合はちょっと事情が違う。
長野県で少年野球チームを指導していた板倉氏は、10年ほど前にフィリピンで野球教室を行ったのがきっかけ。高校野球の名門・日大三高で甲子園にも出場した野中氏は、2001年にバリ島に移住したのを機にインドネシア代表監督に就任する運びとなった。社会人野球の名門・松下電器(現・パナソニック)で4番打者として活躍した実績を持つ内田氏も、長く現地に身を置いてシンガポール野球の構築に貢献してきた。
3氏ともに個人的な人生の巡りあわせでそれぞれの国に出会い、野球未開の地と言っていい東南アジアに「日本野球」を伝える活動をすることになった。
「想い」が伝わり生まれる選手との信頼関係
「日本野球」を東南アジアに伝えることは、簡単なことでないのは容易に想像がつく。ただでさえ文化や人生観などに大きな差のある日本と東南アジア。まして、「日本野球」と言えば日本的な規律や精神性が凝縮されたような特殊な世界だけに、ギャップは小さくないはずだ。
東南アジアの野球と一口に言っても、国ごとに野球文化の浸透度などには差がある。指導にあたっても事情は異なるようだが、たとえばインドネシアの野中氏は基本的に「日本野球」をそのまま実践しているという。2007年、初めて代表監督に就任した当初は、あまりの練習の厳しさに周囲からも非難の声が上がったという。
それでも「日本野球」を貫いたのは、甲子園を目指した高校時代の記憶があったからだった。苦しい練習の日々が続いても、その苦しみを与える監督を信頼することができた。その関係性を築くことは、異国の地でもできるはずだ。
その思いが選手たちにしっかりと伝わっていることは、今大会を通しても十分に伝わってきた。野中氏が監督に就任した当初からインドネシア代表としてプレーするキャプテンのトリスナディ選手は、こんなふうに語ってくれた。
「カントクのことは本当に尊敬しています。厳しくても、それが日本の文化だということはわかっているし、『上手くなってほしい』という思いが伝わってきますから。これからもずっと、カントクに代表チームの指導を続けてほしい。それは絶対、です」
その国を愛することで伝わるものがある
今大会を取材していて、感動した光景がある。試合前の国歌斉唱時、3人の日本人は手を胸に当て、それぞれの国歌に合わせて口を動かしていた。「日本」を押し付けるのではなく、その国を愛し、混ざり合おうとしているからこそ、文化の壁も乗り越えて伝わるものがあるのだろう。
「日本人対決」となった決勝戦で野中監督のインドネシアを下して優勝を決めたフィリピンの板倉氏は、選手たちに取り囲まれ、ジャカルタの空に高々と舞っていた。
(photo & text : 本多辰成)
スポーツコラム「スポーツが繋ぐ! 東南アジアと日本の新時代」
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