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【旅を深めるミニ講座】究極の美を巡るシンガポール、プラナカンの旅 ~前編~

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photo:日本アセアンセンター、シンガポールミュージアム日本語ガイド

 

シンガポールやマレーシアのガイドブックを開くと、女性の乙女心をくすぐる文化として大きく紹介されている「プラナカン文化」。かつてマレー半島で財をなした「ババ」「ニョニャ」と呼ばれる人々が築き上げ、いまも脈々と受け継がれている華麗でユニークな衣・食・住の文化。何となく知っているけれど、実際にどのような歴史で花開き、現代に引き継がれているのかはよく知らない。

 

ということで、今回の「旅を深めるミニ講座」ではディープな魅力が宿る「プラナカン文化」について、シンガポールミュージアム日本語ガイドとして活躍中の榎澤明子さんにイチから質問。旅の前に一緒に予習しませんか?

 

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photo:シンガポールミュージアム日本語ガイド

 

現在、シンガポールではプラナカン文化を紹介するプラナカン博物館を含め4つのミュージアムで、現地在住の日本人有志がガイド活動を行っている。展示の案内やその準備はもちろん、約60名が所属するガイドグループを自ら運営している。その一人として4年前から参加している榎澤さん。そのきっかけは?

「私は夫の仕事の都合でシンガポールに引っ越してきたのですが、日本での仕事を辞めて専業主婦になったので暇な時間も多く、せっかくなら住んでいるシンガポールのことを知りたいと思ったのがきっかけでした。友達もいなかったので、その両方を叶えてくれる場所でした。元々アートが好きで参加する方も多いのですが、何か新しいことを始めたいという方もいて、私は後者の方で。ここでは何も知らなくても受け入れてもらえて良かったです」

 

「プラナカン」はどのようにして誕生した?

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photo:STB

 

実際に住んでみて「いろんな人や文化があって、狭いながらに面白い国だと思う」というシンガポール。観光スポットも飛躍的に増える中で、2008年にオープンしたプラナカン博物館や美しいショップハウスが残るカトン・エリアなど、スポットを浴びるのがプラナカン文化だ。

「プラナカンとは、マレー語で“地元生まれの子”を意味します。本によっては、中国福建省から渡来した男性と地元の女性の間に生まれた子孫と説明されていますが、実はプラナカンの中には中華系だけでなくインド系の人もいて、インド系の中でもヒンドゥー教やイスラム教、いろんなコミュニティがあるんです。元々、この土地は季節風の交差点で、イギリスの植民地になる前から貿易が盛んでした。風に乗ってインドや中国の人々がビジネスのためにやってきて、自分の国に向かう風になったら帰る。でもその中に、ここに残って地元の女性と結婚する人たちがいたのです」

 

そして1819年、イギリスからラッフルズ卿が上陸し、シンガポール、マラッカ、ペナンはイギリスの植民地に。周辺国も欧州諸国の統治下となり、新たな開港で大量の新移民がこの地にやってくる。

「そうした、後から来た移民ではなく、それ以前の古くに交易で来て住み着いていた人々の子孫のことを”その土地に生まれてきた子”と呼び始めたのが、“プラナカン”の最初です。でも今となってはその代まで遡るのは難しいので、きっちりとした(時代区分の)定義はないと思います」

 

ミックス上手なプラナカンが編み出した「美」

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photo:日本アセアンセンター

 

貿易業などで黄金時代を築き、いわゆるセレブリティとして華やかな生活を送っていたプラナカンたち。彼らが残してきた様々な文化の中でも、日本人を含め海外の人々を惹きつけるのが、精巧で美しいビーズ刺繍やパステルカラーで彩られた建築や陶器の数々だ。その独特の色彩感覚には、何とも言えない魅力がある。

「シンガポールはインドや中国から多様な民族が渡来し、さらにヨーロッパから西洋文化の影響を受けているので、自然と東洋と西洋の文化が混ざり合って新しいものが作られた。食器などに使われているピンクやパステルカラーも、それを象徴するものの一つです。また、シンガポールは熱帯なので植物の色もとってもカラフル。文化と共に、熱帯ならではの自然の色になったのではないかと思います」

 

東洋と西洋、さらに伝統とモダンを柔軟に取り入れていった彼ら。中華系プラナカンの間では、赤はめでたい色、喪に服すときは黒や青、白のサロン(スカート)を着用するという伝統があるが、モダンな西洋の美意識を取り入れ、早くから黒を普段のおしゃれ使いにしたのもプラナカンだそう。また、儀式や宗教は父方の風習を継承することが多く「ご先祖様を大切にする」ことが柱となっているが、そこも柔軟な彼ら。「子供がミッションスクールに通ってキリスト教を学び、家族ごとキリスト教に改宗するようなこともあったようです」(榎澤さん)

 

母はいつの時代も強い?「ニョニャ」文化

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photo:日本アセアンセンター、シンガポールミュージアム日本語ガイド

 

さて、シンガポールに来てプラナカン文化に触れるなら絶対に欠かせないのが、「ニョニャ料理」と呼ばれる伝統料理だ。プラナカンの女性を指す「ニョニャ」。中華とマレー、西洋のエッセンスを融合して絶品グルメを編み出していった彼女たちだが、料理といい刺繍といい、気が遠くなるような手の込みようを見ると、ニョニャたちは相当に辛抱強い女性たちなのではと想像してしまう。

「1900年前後から第二次世界大戦前にかけて、プラナカンの女性たちは10代、大体が14~16歳で結婚する人が多かった。12歳くらいまでは外で普通に遊べても、それ以降は花嫁修業ということで自由に外出できず、家の中でビーズ刺繍や料理に励んでいたと言われています。ただ戦後、女性の社会進出ではプラナカンの女性たちが早かったとも。というのも、早くから高等教育を受ける女性が多く、混血のコミュニティなので言語に堪能で、母方のマレー語に加えて英語教育を受ける人が多かったのです。プラナカンをモデルにしたドラマを見てても思ったのですが、当時の女性は自由に外出できなくても強かったのだなと。きっと嫁姑の問題もあったでしょうが(笑)、家の中を取り仕切るのは母親やお嫁さんの役目。しっかりと家を守っていたから、社会に出ても成功する人が多かったのではないかと思います」

 

彼女たちがたどった歴史に思いを馳せながら、いまもシンガポールの生活に色濃く残る足跡に目を向けてみる。その中でも榎澤さんが最も驚いた”プラナカン文化”とは? また、シンガポールならではの見どころとは? 後編にてお届けします!

後編はこちら>>

 

<プロフィール>
榎澤明子(えのさわ・めいこ)

夫の転勤に伴い、2010年1月よりシンガポールに在住。2010年4月よりミュージアム日本語ガイドグループに所属し、シンガポール国立博物館、アジア文明博物館、プラナカン博物館にて日本語ガイドを行っている。休日の楽しみは周辺各国への旅行とシンガポール国内のローカルフード食べ歩き。

 

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photo:STB

(text:Izumi Kakeya)

 

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