ミャンマー
カルチャー
東南アジアと日本の絆

ミャンマーと日本の知られざるサッカーの絆 前編

著者撮影

タイを筆頭に今、サッカー界で東南アジア諸国の急成長が目覚ましい。Jリーグもそれに注目し、「アジア戦略」として東南アジアの国々との関係を深めてきた。各国のリーグと提携を結び、Jリーグのノウハウを無償で提供する。アジアサッカー界のトップに君臨する日本がリーダーシップをとり、アジア全体のレベルを引き上げようという取り組みだ。

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だが、こういった関係はあくまでもJリーグが始まってからのもの。歴史を遡れば当初はアジアでもサッカー後進国だった日本に対して、欧米列強の影響下にあったため比較的早い時期にサッカーが伝えられた東南アジアは日本よりも進んでいる面があった。なかでもイギリス領だったビルマ(現在のミャンマー)は長くアジアトップレベルの強国として知られ、アジアレベルの大会でも好成績を残していた。

 
実は日本はかつて、ビルマからサッカーを教わったことがある。といっても、たとえばサッカー協会の支援によるものなどではない。今からおよそ100年前、たまたま日本に留学していたたった一人のビルマ人青年によるものだった。その指導によって日本のサッカーはプレースタイルの基盤が築かれ、飛躍的な進歩を遂げることとなった。

「日本サッカーの恩人」ともいえるそのビルマ人青年の名は、チョー・ディン。ディンさんは1920年頃から東京高等工業学校(現在の東京工業大学)で学ぶ学生だった。日本では陸上競技の棒高跳びをしていたが、母国では小さい頃からサッカーをしていたという。

チョー・ディン氏(左)   写真提供:日本サッカーミュージアム

ディンさんは東京高等師範学校などでサッカーの指導をするようになった。その指導はキックやパスの基本的なことからだったが、それさえも当時の日本では知られていないことが多かったのだ。ディンさんがコーチングしたチームは、技術的にも戦術的にも明らかな進歩を見せた。

ディンさんの存在が全国に知られるようになったのは、早稲田高等学院を指導したことがきっかけだった。コーチを受けた早稲田高等学院は、現在のインターハイにあたる全国高等学校ア式蹴球大会で2連覇を達成。それによって指導力が注目されたディンさんは以降、全国を巡回して各地でコーチをするようになった。

指導のために『How To Play Association Football』というコーチングの本も執筆し、1923年には教え子たちの協力によって日本語版が出版された。当時の日本にはなかった写真や図を多用した理論的なテキストで、それによりディンさんのコーチングは本格的に全国に波及。黎明期の日本サッカーに与えた影響は計り知れないものだった。

ディンさんが指導したチームは、細かいパスをつなぐサッカーが特徴的だった。それは、ディンさんがスコットランドのサッカーに影響を受けていたからとも言われている。当時のスコットランドは、体格がよくロングボールで勝負する世界最強のイングランドに対抗するためにショートパスをつなぐ攻めを得意としていた。そのサッカーがディンさんを通じて日本に伝わり、今に連なる日本のスタイルの土台が築かれた。

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ディンさんの指導を受けた選手たちはその後、選手、指導者として日本サッカーをけん引していった。1930年には東アジアの国の代表チームで争われる極東選手権で優勝し、国際大会での初タイトルを獲得。さらに、その6年後のベルリンオリンピックでは優勝候補のスウェーデンを破る世紀の大波乱を演じている。「ベルリンの奇跡」として今も語り継がれるその歴史的快挙も、ディンさんの存在なしに成し遂げられることはなかっただろう。

ディンさんは1924年にビルマに帰国、その後のことは何もわかっていない。母国のミャンマーでは今も一般にはほぼ無名の存在だが、2007年には日本サッカー殿堂入りを果たした。「アジア戦略」を担当するJリーグ国際部の山下修作氏は、「チョー・ディンさんのことをミャンマーの人は全然知らないんですが、日本サッカー殿堂入りしていることを伝えるととても喜ばれます」と語る。

細かいパスをつないできっちりと攻撃を組み立てるスタイルでアジアの覇者となった21世紀の日本サッカー。そこには約100年前、一人のビルマ人青年が注ぎこんだフットボールの血が、確かに脈々と流れている。

後編に続く>

 
(text : 本多 辰成 )

 

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