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東南アジアと日本の絆

ミャンマーと日本の知られざるサッカーの絆 後編

ミャンマーでサッカースクールなどを展開しているアルビレックス新潟ミャンマー  提供 村中翔一

ビルマ人留学生のチョー・ディンさんが日本サッカーの基盤を構築してから長い年月が経ち、アジアの勢力図は様変わりした。日本は1993年のJリーグ開幕を契機にアジアの盟主への道を歩み始め、今では東南アジア諸国においても「アジア最強は日本」という認識が一般的だ。その一方で戦後、軍事政権時代が長く続いたミャンマーは、次第にアジアの上位争いから姿を消していった。

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だが近年、ミャンマーのサッカーに復活の兆しがある。2015年には日本が出場を逃したU-20ワールドカップに初出場。昨年末に行われたAFFスズキカップ(東南アジアの代表チームの王者を決める大会)では、6大会12年ぶりにベスト4まで駒を進めるなど、存在感を取り戻しつつある。その躍進が日本でも注目され始めたタイに続く成長株となりうる気配だ。

そのミャンマーの復活に、実は日本も少なからず力を貸してきた。直接的なものとしては、日本サッカー協会などによるコーチの派遣。2013年には手島淳氏がU-14とU-16のミャンマー代表監督に就任し、若手の育成に尽力。2011年から2014年にかけては熊田喜則氏が女子ミャンマー代表監督を務め、2013年には東南アジアサッカー連盟から女子最優秀監督賞を受賞するなど大きな功績を残した。100年の時を超えた、日本からミャンマーへの「恩返し」と言えるかもしれない。

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復活への道を進み始めたミャンマーサッカー界には、一人のキーマンがいる。2005年にミャンマーサッカー連盟の会長に就任したゾー・ゾー氏だ。ミャンマーの巨大財閥「マックスミャンマーグループ」の創設者である同氏は、私財を投じて新スタジアムやアカデミー施設を建設。大会前には代表チームに海外で長期合宿をさせるなど、強化に力を注いできた。

そのゾー・ゾー氏の人生が、実は日本と深い縁でつながっている。同氏は20代だった1990年代の初頭を日本で過ごしていた。皿洗いなどのアルバイトで寝る暇も惜しんで働き、生計を立てていたという苦労人なのだ。そして、ゾー・ゾー氏がそんな情熱的な青春を日本で送っていた頃、ちょうど日本のサッカー界は大きな変革期を迎えていた。Jリーグの開幕である。

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現在、ミャンマーでサッカースクールなどを展開しているアルビレックス新潟ミャンマーの村中翔一氏が、ゾー・ゾー氏と日本との関わりがみずみずしく感じられるエピソードを語ってくれた。

『ゾー・ゾーさんは、すごく日本を意識されている方だと感じます。北澤豪さん(元サッカー日本代表)がミャンマーに来られたことがあるんですが、ゾー・ゾーさんは日本にいた頃に(北澤さんが所属していた)ヴェルディ川崎の試合をよく見ていたそうで、北澤さんが来たことに本当に大興奮していました。日本語も流暢で、北澤さんとの会話も通訳は必要ありませんでした』

ゾー・ゾー氏は帰国すると、マックスミャンマーグループを設立。輸入業を皮切りに、観光業、建設業、ホテル経営など幅広く事業を展開、一代でミャンマー屈指の巨大企業グループを築いた。青春期に偶然にも日本サッカーの革命期の空気を肌で感じたミャンマー人青年が、帰国して成功を収め、母国サッカーの復活に尽力する。さらに遡れば100年近く前、日本のサッカーを大きく前進させたビルマ人青年がいた、と考えれば、両国のただならぬ縁を感じずにはいられない。

アルビレックス新潟ミャンマーの村中氏によれば、ミャンマーのサッカー関係者やファンのなかにはディンさんの存在を知る人もいるという。『日本にサッカーを教えたのはミャンマー人だった』と誇らしく語る人もいるそうだ。かつての強国・ミャンマーと、現在の覇者・日本。不思議に絡まり合う歴史の絆を持つ両国が、いつか、ともにアジアのサッカー界をリードする日が来ることを期待したい。

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(text : 本多 辰成 )

 

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